2017年11月25日

すさまじい終戦直後の米兵性犯罪

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11月17日から、うるま市在住の女性(当時20歳)を暴行殺害したなどとして、強姦致死、殺人、死体遺棄の罪に問われている元米海兵隊員で軍属だった男(33歳)の裁判が那覇地裁で開かれているが、終戦直後の米兵による性犯罪のすさまじさは顧みられることは少ない。この状況をみれば、米軍関係者による性犯罪に注目する報道に疑問を投げかけ「性犯罪は日本人でも起こす。たまたま米軍関係者だっただけ」という言葉は出てこないだろう。弊社発刊の『沖縄の基地と性暴力』は次のように説明している。

「沖縄女性が狙われるのは外出する時だけではない。戦後まもない時期、夜中に米兵が集団で押しかけ女性を拉致する事件も頻発した。あらかじめ女性がいる家に目星をつけておいたようだ。家族が助けようと抵抗すれば、米兵は銃を持っていて発砲も躊躇しない。まさに強盗団の振る舞いである。女性は自宅にいても心休まらない時代であった。

本部町の男性(当時55歳)による証言である。

 「私の家の近所に照屋松助という頑丈な男がいた(中略)そこに突然銃を持った2人の米兵が現われ、妻子に乱暴しようとした。たまりかねた彼は起き上がって来て米兵の前に立ちはだかり、『私も海軍にいたことがあるが、君たちのように非道なことをしたことはない、さっさと帰りたまえ』とどなりつけた。言葉は通じなかったものの、その場は何事もなくおさまり、米兵らはいったん引き上げたかに見えた。ところが、間もなく米兵らが戻って来て、彼を叩き起こし、銃をつきつけて前へ歩くように命じ、前の原っぱに連れ出していきなり射殺したのであった。(中略)

昼のうちにそこらを徘徊していた数人の黒人兵は、家の中に何人かの女性がいるのを見ていたのであろう。その晩おそく、黒人兵らが突然その家の中に踏み込んで来た。大声をあげて逃げまどう婦人たちを追いかけ、1人ずつわし掴みにして闇に消えた。相手は銃を持つケモノたちである。その場に居合わせた男たちには、どうすることもできなかった」『沖縄県史10 沖縄戦記録2』(国書刊行会 1974年)

このほか、次のような具体例がある。

 ・1946(昭和21)年4月7日、首里市(現在の那覇市)の自宅で夕食後、28歳の女性は夫と雑談していたが、3人の米兵が侵入、夫を押さえ込み強姦される
 ・同年6月13日深夜、小禄村(現在の那覇市)の男性宅に米兵2人が侵入。男性が大声をあげると、米兵は逃走しながら拳銃を発射、屋内で寝ていた2人の女性がけがを負う
 ・同年6月22日午前零時半ごろ、小禄村の自宅で46歳の女性が寝ていたところ、米兵(黒人)3人が侵入、拳銃で脅迫して軍部隊の兵舎へ拉致される。同日午前4時ごろには、大里村(現在の南城市)の自宅で19歳の女性が寝ていたところ、雨戸をこじ開け侵入してきた米兵(白人)3人に拉致される
 ・同年8月18日、首里市の男性宅へ米兵3人が侵入。男性が妻や近所の女性をかばって抵抗すると、米兵の1人から切りつけられ頭にけがを負う
 ・1947(昭和22)年9月22日、27歳の女性が大里村の自宅で寝ていたところ、トラックで乗りつけた4人の米兵が侵入、女性を連れ去る
 ・同年10月1日、28歳の女性が越来村(現在の沖縄市)の自宅で寝ていたところ、米兵が侵入して女性を取り押さえた後、畑の中に連れ込んで強姦し拳銃で頭部をたたき殺す」

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2017年11月18日

沖縄守備軍が中国で何をしたか

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沖縄における兵士の性暴力について語ろうとするとき、太平洋戦争の沖縄戦までさかのぼることができる。奇妙にも、性暴力という面では旧日本軍と米軍の間には共通点を見いだせる。弊社発刊の『沖縄の基地と性暴力』は次のように説明する。

「当時の沖縄守備軍はどのような状況にあったか。守備軍の主要部隊にあたる第62師団を例として見てみよう。同師団は本島中部から守備軍司令部のある首里までの地域に配備され、1945(昭和20)年4月、本島中部に上陸し首里に向けて進軍する米軍の主力部隊と正面から激突することになる。もともとは中国で1943(昭和18)年5月、山西省の治安・警備を担当していた独立混成第4旅団と山東省から移ってきた独立混成第6旅団の一部を中心に編成された。沖縄戦も経験した同師団の元兵士、近藤一氏が中国での日本軍の残忍な行為について証言している。

「村を襲った場合は、まず金目のものやロバ、牛などの略奪を行いました。女性がいれば輪姦し、その後で、憲兵に知られないように殺害することが普通に行われていました。
 最初の討伐の行軍の時、ある村で赤ん坊のいる女性を古兵が輪姦しましたが、その時は女性を殺さずに裸にして大行山脈の険しい山道を連行しました。途中女性が弱ってきたのを見て、一人の古兵が赤ん坊を掴んで谷底に投げ捨てると、女性もその後を追って身を投げるという事件があり、その現場を私は目の前で目撃しました」」

「なぜ、中国で性暴力に走ったのか。石田米子・内田知行編『黄土の村の性暴力 大娘たちの戦争は終わらない』は、日本軍の兵力配置に問題があったと分析する。戦争が長期化・泥沼化するに従って、投入できる兵士の数が減っているにもかかわらず、広大な中国大陸を支配しようとすれば、兵力は分散し、下士官を隊長とする十数人から数十人規模の小部隊が各地域を取り仕切る。憲兵はおろか将校の目さえ届かず、小部隊は担当する村に対して独裁政権のように振る舞い、村は無法空間となってしまったという。

 一方、兵士が置かれた精神状況からの指摘もある。さきほど紹介した近藤氏は、戦前の学校教育、さらに軍隊内の教育や雰囲気が中国人への差別意識を植え付け、罪の意識や善悪の感覚を麻痺させたと振り返った。戦前の学校では、「天皇を神と戴く大和民族は世界一優秀である。隣国の中国はチャンコロでいい」「隣の支那は軍閥が乱れ割拠し、国がまとまらない。だから、優秀な大和民族が行って、王道楽土をつくるのだ」と教えられる。軍隊に入ってからは、罪の意識があっては戦闘ができないと、後ろ手にしばった中国人を刺し殺す訓練が行われる。

 さらに、戦場では戦友らがけがを負い、死んだとなれば、敵である中国人にやり返せ、何をしてもかまわないという雰囲気になる。特に、敵の討伐作戦で集落に入り込んだときは、「ただでやれる」とばかりに女性をつかまえ暴行し金品を強奪する。やった者勝ち、やらなければ損。血気盛んな20代の兵隊が多かったこともあり、そんなムードになったという。

 また、加害者体験を告白した別の元日本兵も次のように告白する。「当時は、中国人のことをチャンコロと言って、劣等民族だとバカにしていたんです。その『チャンコロ』が天皇を戴く優秀なる日本民族に反抗して、けしからんと思っていました。だから、これは正義の戦争であり、天皇のため、国のため、親兄弟のための戦争である、という信念を持っていたんです。小さい頃から、そういう風に教育されてきたんです(中略)当時は、チャンコロの女を強かんして何が悪いんだ、どうせ殺すんだからいいんじゃないか、と考えて強かんをしていたんです」」
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2017年11月08日

沖縄に130を超える慰安所を設置

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 沖縄における軍と性暴力の関係を振り返るとき、その原点として慰安婦問題を抜きには語れない。戦時中、少なくとも延べ130を超える慰安所が沖縄に設けられていた事実は意外と知られていない。弊社発刊の『沖縄の基地と性暴力』では次のように説明している。
「性犯罪の対策として旧日本軍が取り組んだのが慰安所の設置だった。慰安所とは、軍人や軍属専用の売春所。軍関係者の性を管理しようとしたのである。市民グループの調査によれば、少なくとも延べ130カ所にのぼり、145カ所に達したという説もある。

 明らかになっただけでも、69カ所で民家が、19カ所で集落の公民館や工場、病院が強制接収され、16カ所で旅館や料亭が利用された。部隊が建設したのは13カ所だった。民家では、いきなり「軍が慰安所として使うから」と追い出され馬小屋での暮らしを余儀なくされ、体調を悪くした人もいた。「慰安所には貸さない」と拒めば、「軍に協力しないつもりか」と銃剣で脅された高齢女性もいた。地方検察庁のトップである検事正も陸軍には歯がたたず、慰安婦の宿舎にするため官舎から追い出されたという証言がある」

 『慰安所で働く女性はどこから来たのか。まず、目をつけられたのは、沖縄の遊郭である辻だった。沖縄に進軍してきた日本軍の副官は、辻の女性たちを前に「こんかいの戦争は皇国の興廃と沖縄の命運をかけた戦いぢゃ。各自の持ち場でご奉公の誠をつくし、国民総動員で戦争を勝ち抜かねばならぬ。お前さんたちに鉄砲で戦えと言うのではない。慰安所で兵隊の士気を鼓舞し、勇躍出動するように激励してくれ』と叫んだ。

 次に目立つのは、朝鮮半島から沖縄へ渡ってきた女性たちである。だまされて連れてこられたという証言がある。沖縄戦当時、小学校5年生だった玉城村(現在の南城市)の住民は、集落内にいた5,6人の朝鮮人慰安婦のことを覚えている。服や食料に困っているのを見かねて、家族が家に招き食事や服を与えていた。彼女たちは軍隊で炊事の仕事をするといわれ連れてこられたが、実際には慰安婦をさせられ「聞いていない」「全然話がちがう」と泣いていたという。

 このほか、本土の女性もいたようだ。慰安所ごとに、同じ出身地の女性が集められることが多かった。第5回「全国女性史研究交流会のつどい」第1分科会メンバー『戦争と女性―「慰安婦マップ」が語るもの』(1992年)をもとに集計すれば、朝鮮人女性が40カ所、沖縄女性が38カ所、本土女性が4カ所、朝鮮人女性と沖縄女性の混合が5カ所だった(女性の出身地が分からない慰安所も目立った)。女性の人数は数十人から数人程度と幅があるが、数人から十数人程度の規模の慰安所が一番多かった」
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