2011年06月26日
歴史感覚の風景
6月23日、沖縄戦が終結した「慰霊の日」を迎えた。全国ニュースでも特集を組んでいたが、そのいくつかを見てみると、ほぼ同じパターンであった。悲惨な沖縄戦と普天間基地の移設問題を並べ、苦悩が続く沖縄の姿を浮かび上がらせようとしていた。
良心的な報道のように思える一方、沖縄戦と米軍基地問題をつなぐ説明がないため、この2つの歴史的な事実が偶然重なったかのように受け取られかねない。沖縄に「いかに多くの米軍基地があるか」は語っても、「なぜ多くの米軍基地があるか」はあまり語られない。これは、昨年、鳩山政権で普天間基地の移設問題が盛んに論じられていときと変わっていないように思える。
しかし、現実には2つの歴史的な事実、そして現在の日米関係、本土と沖縄の関係とつなぐ何本もの糸がある。そもそも沖縄戦も当時の日本軍の戦略が招いたものであり、そのために米軍側にも1万を超える犠牲者を出し、「仲間の血で勝ち取った島」という意識が生まれた。普天間基地の移設予定地であるキャンプ・シュワブをはじめ沖縄の米軍基地の多くには、沖縄戦で戦死し名誉勲章を受章した兵士の名前がつけられている。
また、戦後日本が平和憲法を掲げ経済成長に専念できたのも、沖縄を本土から切り離して巨大な米軍基地を沖縄に建設、緊張関係の高まる極東ににらみをきかせたことと無関係ではあるまい。
6月21日には、日米両国の外務、防衛担当閣僚による安全保障協議委員会が開かれ、名護市辺野古に建設する普天間基地代替施設は、埋め立て工法によるV字形滑走路に決定したと発表。新聞には笑顔を浮かべて会見する日米の閣僚の写真が掲載された。しかし、移設計画は日米の合意から15年経過した今もほとんど進展しないまま、沖縄側は反対姿勢を強め、政府は何とか事態を打開しようという決意も見えない。米議会軍事委員会の主要メンバーも「実現不可能」と判断した。安全保障協議委員会の発表には、なぜ15年間進展しなかったのかを問う歴史的な感覚はまったく感じられない。
この記事へのコメント
コメントを書く