2014年09月21日

「勝ち組・負け組」にみる日本人の精神構造

イッペーの花 .jpg

ブラジル・サンパウロ時代の友人、紺谷充彦君がこのほど『イッペーの花 ―小説・ブラジル日本移民の「勝ち組」事件―』(無明舎出版)を上梓した。「勝ち組」事件とは、太平洋戦争後のブラジル日系社会で、日本が戦争に勝ったか負けたかをめぐり、死者を出す抗争や詐欺事件が相次いで起きたことを指す。

この小説を読みながら「勝ち組」事件について考えると、戦後70年近くが経過しながら日本人はほとんど変わっていないという思いがこみあげくる。一つには他人にレッテルを張ったり派閥をつくったりすることを好む点である。意味は異なるものの、現在でも人生の勝者、敗者という意味で「勝ち組」「負け組」のレッテルが使われる。一時期、30代以上の未婚女性を「負け犬」と呼ぶのが流行ったのも同じ思考方法であり、日本人が好きなランキング付けも一種のレッテル張りだろう。いじめの問題も、「異分子」のレッテルを張るところから生まれると考えられる。

日本人のレッテル張りの恐ろしいところは、そのレッテルによって全人格を決めつけてしまうところだ。「勝ち組」事件で、日本の勝利を信じる者が「戦争に敗れた」という者を許せず暗殺したが、これほどでないにしろ、現在でも張ったレッテルによって人間性の優劣や人格を判断している。たとえレッテルが正しいとしても本来は、その人のほんの一面にすぎないとは考えられない。自分と異質な考えや行動する人を認める余裕もない。

「勝ち組」事件が語る別の教訓は、事実と信念を混同しやすいところだと思う。「勝ち組」事件の悲劇は、日本は負けないという信念のもと、どんなに客観的な事実を出しても目をそむけたところだ。現在では、日本の敗戦を信じない人はいないが、戦争の「正義」という面では、今でも日本の勝利を信じる人は少なくない。また、尖閣問題を端緒にして中国と戦争をして「勝てる」と信じる人々、つまり「勝つにちがいない」組も相当いるようだ。

確かに、客観的な事実を定めることは容易ではない。しかし、立場の異なる人々と意見や資料を擦り合わせて客観的な事実に近づくはできる。もっといえば、近づこうとする行為自体は重要なのである。そうした努力をせずに、自分の信念だけで事実を見定めようとする人々が結構いるという点では、現在も「勝ち組」事件の延長線にあるのかもしれない。
posted by テツロー at 15:40| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
紹介してくれてありがとうございます。
Posted by コンタニ at 2014年09月24日 19:30
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