2024年08月14日
まだまだ知らない沖縄戦の惨状
明日(8月15日)で終戦から79年になるが、沖縄戦だけをとってもまだまだ知らない事実があることを痛感させられる。例えば、南風原町で地獄絵図が繰り広げられたことは最近、『南風原町史』で気づかされた。次のような証言が掲載されている。
「本部を後にして山川にさしかかったときに、山川の人がいたので、『小さい子どもを連れていくのは大変なので、ここに一晩泊めてください』と頼んだら、『ここの壕はいっぱいだから入ることはできない。早くあっちに逃げろ。敵にみつかったら俺たちもやられる』と言って追い返されました。私はこの言葉にとてもショックを受けました。いまだにこの言葉を忘れることができません。それから、どこに逃げていいのか、どうしたらいいのか分からずにそこをウロウロしていました。山川(宇平)橋のところもたくさんの人が死んでいました。橋も壊されていたので死んだ人間を積んで、みんなは橋のように渡っていました」
「死の橋と言われた山川(宇平)橋の周辺から約1キロ半は、後から通る人が死体を道路の端にどけるので、死体が土手のように道端に積み重なった状態が続いていた。陸軍病院壕からの撤退が始まったらしく、たくさんの傷病兵が南へ向かっていた。手や足を切断された人までが地面を這っていた。それは地獄絵図のようだった」
南風原町は沖縄本島南部の中央に位置し、沖縄戦が始まる前から日本軍における後方支援の重要拠点であり、本島中部や那覇市から南部へ避難する際の主要経路だった。このため、米軍は住民や兵士が集中する交差点や橋に照準を定め砲撃や爆撃を重ねたとみられる。写真は「死の橋」と言われた現在の宇平橋。通称山川橋とも呼ばれる。
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